私が濵田崇裕に落ちた時。



流星担のよきさんが行っていたアンケート「人が藤井流星くんに落ちる時」そしてブログを読んで私が濵田崇裕に落ちた時を振り返ようと思います。

関西ジャニーズJr.を知るきっかけは少年倶楽部いつかの少年倶楽部

「僕村上くんみたいになりたいんです!」

と言っていたジュニアがいた。
当時関ジャニ∞のファンの私は初めて関ジャニ∞の、しかも村上くんに憧れてるジュニアがいる!!と知りその子を気になるくんとして関西ジャニーズJr.を気にかけるようになった。

その時濵田くんはそのジュニアと同じグループとして活動していたが私の中で全くと言っていいほど彼を見た記憶がない。


でもその数年後密かに応援していた、村上くんみたいになりたいと言っていた彼が突然芸能界から姿を消した。今考えると彼を見にコンサートや舞台に足を運べばよかったと少し後悔はあった。

彼が芸能界から姿を消したのもショックだったがそれより私の気持ちの中には何故か「一緒にてっぺん取ろうな、とまで彼と約束していた相方の濵田くんはどうるんだろう」という思いが頭の中をぐるぐると回っていた。


そんな思いを抱きながら月日は経ちA.B.C-Zと関西ジャニーズJr.が日生劇場で「少年たち」という舞台を行っているのを知る。
元々DVDで見ていた作品だし何より関西ジャニーズJr.が、濵田くんが東京にきている!と思った次の瞬間には特別受付で申し込みしていた。(記憶がないので覚えていませんが多分通常申込は案内が来てたけど出さなかった)
当たればいいなあという割と軽い気持ちで申し込んだが数日後、ありがたいことに特別受付に当選し私は日生劇場へ足を運んだ。

初めて「濵田くんをみる」という気持ちで入る公演。見終わった時には「私濵田くん応援したい」という気持ちでいっぱいだった。どこがよかった何がよかったは全然覚えていないけど「濵田くんを応援したい」と自然と感じた。(青いツナギをきて萌え袖してる濵田くんがかわいい!ってなったのは記憶にある)
この時点で当時の担当である大倉くんの次に応援したい人枠の濵田くんだった。

少年たちを観劇してからは徐々に関西Jrの現場に足を運ぶようになる。と言っても社会人になるまで遠征などはしたことがなかった私に松竹座へ行くという行為ははるかに遠く彼らが東京でお仕事するときに足を運ぶ程度だった。

翌年の2012年は社会人になり中々劇場に足を運べないながらも滝沢歌舞伎や少年たちは観劇した。
そして社会人になり安定した収入を手にした私はこの年初めて松竹座へと足を運ぶ。今までExcite!!や少年たちでみてきた劇場に想いを馳せつつ向かった大阪。
ありがたいことに1階10列目という距離でみた初めての「アイドル」濵田くん。今まで舞台で役を演じていた姿とは違いキラキラ輝き歌い踊る姿にもう目を奪われていた。
そして続けさまに3月に行われた春松竹。こちらは新喜劇テイスト強めだったが相変わらず濵田くんに目を奪われるばかり。

もうここらへんから薄々感じていた。今までは関ジャニ∞の曲をずーーーっと聞いていたがクリパ、春松竹を経て今まで撮りためていた少年倶楽部in大阪を再び見返してみたり動画サイトで彼らが出ている関西番組、ラジオを聴いたりして関西Jrに染まっていった。それまで「大倉くん>濵田くん」だった好きの不等号の向きが徐々に「大倉くん<<濵田くん」と向きを変えていた。
初めての担降り、そしてデビュー組からジュニア担へ。不安要素はあったがそれよりも濵田崇裕を応援したかった。濵田崇裕の背中を微力かもしれないが押したかった。もし、彼みたいにこの世界を去ってしまったとしても後悔のないように最後まで応援したい。そんな気持ちのほうが圧倒的に強くなり私は濵田担への道を歩み始めました。


と読み返してみると濵田崇裕に落ちた時が曖昧ですが初めて少年たちで彼をみた時に落ちていた気がします。
割とするんと濵田担になった私。
外部舞台という大きな舞台に連れて行ってくれたり、単独での横浜アリーナコンサート、1stツアー、レギュラー番組。全部ほんの微々たるジュニア担を経て嬉しいと思えることばかりです。濵田くんはまだまだ私にたくさんの夢を見せてくれるとおもうので次は何をするんだろうとわくわくした想いに胸を馳せながら濵田担人生を楽しもうと思います。